
海軍 (中公文庫)
海軍を目指した親友が、最初は道を分かち、そして糾える縄のごとく再び一緒になり、そしてまた分かれていく。
実際のモデルがおり、戦争文学として、昭和17年に朝日新聞に連載されたものというが、今日読んでも実にバランス良い内容だと思う。「昔から戦争というものには、いつも尻押しをする奴がある。」とか、一部に著者のメッセージめいたことも書かれているが、本書全体を通じで、あの時代の感覚がありありと伝わってくる。ハッピーエンディングではないだけに、重い気持ちにはなるが、きっとこれに似たような話はあっただろうと思うと、改めて、(かかってきて受けて立つことにあなる戦争もあるが、そうした他律的な戦争でも)戦争はくりかえさないよう万全の策を国家としてとらないと、と実感した。

「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代
他の方も指摘されているが、素材が面白いながらも掘り下げが浅いと感じた。幾分トリビアに流れてしまっている感がある。同じトリビアでも例えば山口昌男の「内田魯庵山脈」のような化物のような本と比較すると見劣りする。勿論トリビアで山口昌男と比べられても勝負出来る方も少ないと思うが。
僕が著者に掘り下げてほしかった点は二点だ。
一点目。
なぜ薩摩がかような巨大な浪費を行ったのかという点だ。金持ちのボンボンだったからだというような簡単な見方は著者もしていない。薩摩だけの話ならともかく、同時代にも同様のガルガンチュアのような日本人がいたことを著者もしっかり紹介している。
巨額の私財を「贅沢好き」だけで使いきれるものではないと思う。そこに、時代の精神が必ずあるはずである。
著者が描き出す外務省を中心とする日本の官僚組織は薩摩を利用したと描かれている。真偽の程は僕には分からないが、いくばくかの真実味を感じる。では薩摩は自分が利用されているということに気が付かないほどお人よしだったのか。薩摩ほどの教養人(かどうかは議論の余地はあろうが)が、それを知らなかったとも思えない。それを分かっていながら、私財を突っ込ませる何かがあったと考える方が「考える訓練」になると思う。二次大戦前のパリという場所で日本人がどのような立ち位置だったのかをより分析することで何かが見えてくるのではないかと僕は思う。そこが本書にいま一つ書きこまれていないのではないだろうか。
二点目。
何故パリだったのか。本書はパリを主舞台としているが、例えばニューヨークやベルリン、モスクワで同時並行的に同じような事が行われていたのだろうか。
これも僕は知見がないが、有ったとしても、おそらくパリ程ではなかったはずだ。では繰り返すが何故パリだったのだろうか。
芸術というものが戦前の世界においてどのような存在だったのかを再検証することで見えてくるものがあるのではないかという予感が有る。21世紀の現在と1920年〜1930年代の芸術とはおそらく「存在の仕方」が違っているのではないか。
本書で描かれる芸術家たちは「孤高に耐える超人」ではない。「群れてどんちゃんさわぎしている酔人」だ。薩摩のパリでのとほうもない浪費の中には常に芸術家が傍らに立っている。では何故そこに芸術家が必要だったのかということだ。直感的に言うと、芸術が非常に政治的に重要な時代がそこにあったのではないかということだ。これも完全に僕が本書を読みながら考えた思いつきであるが、そういう思いつきを得られる読書は僕にとっては非常に刺激的だ。その部分も著者がもう少し深堀してくれていたらと思う次第である。
それにしても、昔の人には凄い人がいたものだ。読んでいて爽快感を覚える浪費である。

北上次郎選「昭和エンターテインメント叢書」(2)大番 下 (小学館文庫)
この小説には表記の言葉が全部当てはまる。しかしそれでいて読後に味わう爽やかな印象は心に染みてくる。この小説が近年読まれてないというのは残念だ。
ただ株式市場や相場師などに興味がないと手に触れる機会は少ないかもしれない。
かなりの長編だが、読み始めたらぐいぐい引き込まれる面白さをぜひ味わってほしい。
実在の人物や愛媛県南部地域の昭和初期の貧困など知る人ぞ知るである。
精力絶倫の主人公をめぐる数多い女性たちの魅力も面白いが、特にヒロインである二人にしんみりと泣かせられる。
のちに東宝が加東大介・淡島千景・原節子主演で4部作が作られた。全部で8時間近い大作だが、原作をほぼ忠実に映像化しているのに驚く。また重要な出来事はニュース映画や新聞記事を挿入して昭和の歴史を振り返りながら楽しめるのも素晴らしい。黒沢や小津映画に並ぶ大作だとも思う。残念ながらこの作品は現存しない。私はある映画フアンが所蔵しているビデオを最近借りることができて、いま原作と映画を比較しながら楽しんでいる。