
利休にたずねよ
利休が死ぬ場面から時をさかのぼって物語が紡ぎだされるという構成がまず面白いです。
話者が利休だけではなく、利休の周りにいる人からの視点へ何度も変わることで、客観的に見た利休の姿を想像することができます。
多角的に利休を見ればみるほど、その超越的な才能を持ち合わせながら、人間的な部分も感じとれました。
一番好きなシーンはいろいろありますが、中でも心に残ったのが、
利休がこれから大宰府へ流されてしまう宗陳に対して言った言葉。
「人は、だれしも毒をもっておりましょう。毒あればこそ、生きる力も湧いてくるのではありますまいか」
「肝要なのは、毒をいかに、志にまで高めるかではありますまいか。高きを目指してむさぼり、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばいかがでございましょう」
仏教の教えの中に三毒追放というものがありますね。己の成長のためにと思い、私も心がけておりますが、なかなか人間くさくて実行できないこともあります。
天才的な審美眼をもち、超越した仙人のような存在に見えた利休も、自分のいやな「毒」と向き合っていたのかと思いました。
毒を昇華させることで、人間成長できるのかもしれません。
このような利休からの教えはもとより、そのほかの歴史的な魅力的な人物も堪能できます。
おすすめです。

命もいらず名もいらず_(上)幕末篇
山岡鉄舟に関しては、剣の達人程度のあやふな知識しか持っていなかったが、本書を読んで凄まじい男であることがわかった。
この男のすごいのは常に本気だということだ。生涯をかけて剣、書、禅の道を追求するが各々の道の究め方が半端ではない。人の10倍・100倍努力すると思い定めてそれを実行する。つねに全身全霊でものごとにあたるというのがこの男の信条。全身全霊と口に出すのは簡単だが、鉄舟はそれを生涯において実際に日常生活レベルで貫いたことがすごい。
幕臣として徳川慶喜に仕えて江戸幕府の平穏な幕引きに奔走し、明治に入ってからは天皇の侍従まで務めることになるが、自分の身を捨てて真正面から物事に取り組む姿勢が周囲の信頼を得て、物事を成し遂げることにつながったことがよくわかる。
なお、タイトルの「命もいらず名もいらず」というのは、幕末に西郷隆盛と江戸総攻撃を中止するよう談判した際に、西郷が鉄舟について「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす。そういう始末に困る人物でなければ、艱難を共にして、国家の大業は為せぬということでございます」と語った言葉から来ている。

命もいらず名もいらず_(下)明治篇
剣と禅を極めた割には、居候を何人も養ったり、自分で大酒を飲んだり、はたまた借金の保証人になって苦労したりするお茶目な一面もある山岡鉄舟ですが、常に他人の為に自らを投げ打ちます。
身の危険を顧みず、主君・慶喜の意向を大総督府に伝え、江戸を戦火から守り、駿河に移住した旧幕臣の為に茶畑の開墾に尽力したり、西郷や勝の依頼で侍従となり、明治天皇の教育係として、一国の君主だからこそ、立派な君主になってもらいたいからこそ、臣下がお諌めすべきと、悪ふざけの過ぎる天皇を投げ飛ばして諌めたりもします。
そこから見えるのは、国家の為に他人の為に、常に自分が前に進もうとする姿勢です。失敗や敗北は素直に認める。そして、辛い時は目をつぶってもいいから、無私の精神で前に進もうとする山岡鉄舟の姿は、常に自分が大事で何でも他人や周囲のせいにしたがる現代人への警鐘だと思います。